何に、どう打ち込むか(01(2021.05.08)
この「早稲田すぱいく」で、コラムを載せることになった。「スパイク」とは本来の意味では「先の尖った釘」のことであり、ここでは鋭い問題提起のことを指している。そのため、このコラムは、そのタイトルを「ハンマー」とした。お分かりであろうが、釘を強烈に打ち込みたいと考えているのである。優しい評論と文章は、読む者に心地良さを感じさせるが、論点が誤解されることもある。この間の世の議論でしばしばみられる混乱である。
もっとも、この性格の小生が書く文章である。表現も内容も優しくなるはずがない。そのため、これまでも至る所でさまざまな反発や混乱を引き起こした。しかし、表面だった反論はあまり目にしない。再批判を怖れるあまりであろうか、反論に値しないと判断されたのだろうか。どちらにしろ、手ごたえがないのは寂しい限りである。ぜひ、厳しいご意見やご批判を心から願うものである。批判を受けての議論が、真の友情を育てると小生は確信する。
問題は、何事に対して、どのように釘を打ち込むかであろう。もちろん個人的な問題は論外としても、多様性に関わる問題には慎重さが必要と自覚する。それは、小生の視点・論点の問題でなく(勿論、それは大きいけれど)、加齢に伴う認識の劣化が否定できないからである。特に、記憶力の低下は驚くものがある。その結果、「記憶にありません」が、決して政治家の得意技ではなくなるのである。確かに、自分には都合の良いこともあるが。
この間の関心は、「弱い人の悩み」であり、言い換えると「支援を必要とする人の課題」である。「弱い」とは、心身のみでなく社会的立場・事情からくる状態である。別の表現をすれば、「差別」の問題である。事件や事象も、この視点から読み取ると、異なった色彩を帯びてくる。それは、この間、話題に上がったジェンダーに関わる問題だけではない。かつては考えもしなかったようなことに、この視点が求められるのである。
しかし、「弱さ」と「強さ」を共有する人の自己弁護には、何とも言えない違和感がある。社会的地位の高い高齢者が起こす事件・事故の弁明には、理解を超えるものがある。それゆえ、簡単に「差別」と切り捨てることはできない。これも、「多様性」の事例と言えるのだろうか。現代はしばしば「複雑な時代」と呼ばれるが、このように価値観のみでなく事実も、かつては考えられなかったことが存在するようになった。(松友 了)