巨星墜つー田島良昭氏への追悼

ハンマー:02(2021.08.08)

 8月2日、社会福祉法人南高愛隣会の創設者である田島良昭氏の訃報を、この法人で働く次男の電話で知る。ちょうど2か月前の6月3日、氏より八王子市の施設への支援要請の電話があり、大腸がんで入退院を繰り返ししているとのことで、口調に元気が無いことが気になっていたが、まさかこんなに早い別れになるとは思いもしなかった。衝撃を受け、文字通り通り絶句した。翌朝に葬儀が行われ、午後に医療機関に献体されるとのことであった。

 氏の障害者支援活動の功績は、筆舌に尽くし難い。基本理念に障害者の人権を高く掲げ、障害者が地域で暮らす意味を提起し、自ら設立した入所施設を解体し、地域での支援体制を築き上げた。上から目線で障害者に同情を寄せる人や、観念的に人権を論じる人はあまたいるが、自らのそれまでの権威的な実践を否定し、血を流す程の苦難の道へハンドルを切った人はほとんどいない。まさに、思想と行動が一体になり、ぶれることなく貫いた人と言える。

 彼との出会いは、一幅のドラマであった。知的障害の問題に関わり始めた時、当時の全日本育成会の仲野好雄理事長から、「雲仙コロニーを見学するべき」と勧められた。高齢な氏の勧めである。当然、田島氏も高齢と勝手に判断し、丁寧に聞き流していた。ところが、当時の障害福祉課長の浅野史郎氏が、「障害者人権懇談会(人権懇)」を立ち上げ、一癖のある活動家を呼び集め私も声を掛けられたが、そこで初めて田島氏と顔を合わせることになる。 

 氏は長崎県(島原市)、私は佐賀県(唐津市)という、同じ九州の生まれである。人権懇では、率直に熱っぽく語り合った。そして、氏の実践に障害のある長男を利用者として、次男を職員として託したのである。まさに、我が家は氏が作り上げた土台の上に成り立っている。私が長男の現実に何ら悩むことなく、将来に何ら不安をもつことなく、呑気にエラソーに喋りまくることができるのも、氏の有形・無形の支援によるものである。

 その後も、氏からは様々な助言や人や機関の紹介を頂いた。しかし、一度として恩着せがましい言動や、高い地平からの視線はない。それどころか、事実以上の高い評価をいただき、種々の好機の場を与えられた。今になっては遅くなったが、心から感謝の念を申し上げたい。

これまで私は、多くの人のご支援を得て何とか今日までやってこられたが、田島良昭氏のご指導とご支援は別格である。両手を挙げ、地に伏して、衷心から御礼を申し上げたい。(松友)