今月7日に、南高愛隣会の故 田島良昭元理事長の偲ぶ会が、長崎県島原市でありました。偲ぶ会には、最高検の林検事総長や若草プロジェクトの村木厚子さん等々、800人を超える方々が参加されました。この様子は南高愛隣会のホームページやテレビ長崎、遠く北海道新聞、新潟日報などに掲載されています。
「故 田島 良昭顧問を偲ぶ会」参列のお礼 | 社会福祉法人 南高愛隣会 (airinkai.or.jp) 司法と福祉の架け橋として 南高愛隣会 田島 さんを偲ぶ会|ニュース|KTNテレビ長崎
私は障害児教育(知的障害)を学んだことがきっかけで、小児てんかんの子どもを持つ親の会(現:日本てんかん協会)に関係しました。そこで、当時親の会の事務局長だった松友了さんと知り合い、親の会ーてんかん協会の活動にどっぷりはまっていきました。その松友さんのてんかんのある息子の岳さんが成長して入所したのが南高愛隣会でした。本コラムで松友さんが、8月9日付け「巨星墜つ」で、田島さんと松友さんの関係と思い出、追討を書いてくださっています。
松友 岳さん(現在50歳)の保育園のお迎えのボランティアでもあった私は、松友 了さんと45年くらいのお付き合いをしています。小児てんかんの子どもを持つ親の会、日本てんかん協会、全日本手をつなぐ育成会と松友さんがお仕事をされるところで、全面的だったり一翼だったり関係してきました。田島さんが厚生労働科学研究で「罪を犯した障害者の地域生活支援に関する研究」を行われ、その実践として「地域生活定着支援センター」を作る前に、「罪を犯した障害者の地域移行支援に係る職員の養成研修プログラムの開発に関する研究」を、厚生労働省「障害者保健福祉推進事業」で行うこととなりました。(2007年・2008年)そのために南高愛隣会・東京事業本部を松友さんが担うこととなり、私もその事務局員としてお手伝いをすることになりました。2006年12月に田島さんが東京の定宿にされていた新橋の第1ホテルアネックスのロビーで、松友さんに連れられて初めてお会いしました。
それから基本の研修を企画したり、実際、日本各地で研修会を行ったりで、その当時理事長であった田島良昭さんとたびたびご一緒しました。そこで、なぜ田島さんが障害者問題をはじめたか、議員秘書としてアメリカに行かれたこと、米沢藩のながれをくむおばあさまに育てられたこと、・・・たぶん多くの方も聞かれたであろうお話を私も伺いました。この2年間はほんとうにあちらこちらに出張をし、いろんなお話を伺いました。地域生活定着支援センターつくりの布石で、今は亡き副島洋明弁護士ともご一緒しました。北九州の奥田さん、ダルクの近藤さん、龍谷大学の浜井先生等々、この時の報告書を見ていますと、現在の活動の基本となった関係者の皆様のお名前が次々と出てきます。それまで「てんかん協会」だった私も、今は保護司ですし、「東京地検」の社会福祉アドバイザーですし、東京社会福祉士会 司法福祉委員会委員長、とすっかり「司法福祉」です。
田島さんの思い出は先にも書きましたとおりたくさんありますが、なんといっても、荷物を持って下さったことです。移動の際に研修のための材料をいれたキャリーバックでもたもとしていますと、キャリーバックを持って下さり大変恐縮した経験がすくなからずあります。これはうれしかったです。また、社会福祉士会と弁護士会で協働で行っている入口支援の取り組みについて、現状を飲み会の席で訴えたのですが、長時間よく聞いてくださったのです。昨日のことのように思い出されます。笑った時のお顔とともにおもいだされます。(小さなことですみません)
こんなに早く逝かれるとは思ってもいませんでした。ご相談したいことがまだまだありました。そして、私が「司法福祉」の現場にいられるのは田島さんのおかげと思っています。本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。 小林