ウクライナに想う

 毎日、TVやネットのニュースで、ウクライナへロシアが攻撃している映像が流れています。今までの街並みが爆破され、人々が逃げるさまに心がつぶれる思いです。あの映像を見るといろんなことが思い浮かびます。「火垂るの墓」や「この世界の片隅に」他、私は昔から、第2次世界大戦の映像やドラマを見て育ちましたので、ウクライナのみなさんがどんなに大変な状況か想像することができます。

 私事ですが、今から約20年前、インドネシアのジャカルタに住んでいました。夫の転勤の帯同家族でした。子どもは小学校の低学年でした。アジアの経済危機の時期で、IMFがインドネシアに入り、スハルト大統領の引きずり下ろしのデモが毎日、繰り広げられている時期でした。ある日、デモに参加した学生が亡くなり、そのことがきっかけで暴動が起き、危険度が一気に4にあげられました。日本人学校の子どもたちのバスも襲われ、ケガ人はなかったのですが、学校から一晩帰宅することができないということもありました。そのこともあり、多くの外国人は帰国することとなりました。毎日、ジャカルタの空港は帰国の外国人で満員でした。自分でチケットを予約し、帰国するわけですが、どうにか予約ができ、朝から空港に向かい、出発は23時でした。一日、子どもといっしょに空港で待っていましたが、そのとき想ったのは、満州からの引き上げの人々のことでした。私たちは車で移動していましたが、満州からは皆さん、食べるものもなく、何日も歩いて港まで行ったようで、途中で子どもを現地の人に預けたということも、なんとなく理解できた気がしました。

 また、約10年前、東日本大震災で陸前高田市に支援に入りました。3月の末で、津波発生の約半月後でした。それ以降、東京社会福祉士会の有志とたびたび支援に入りました。私たちは、現地の専門職の人々と連携を取っていました。子ども支援、障害者支援、高齢者支援の3組に分かれて連携をして支援を進めていました。そこで、聞いたのは避難所に行けない障害のある子のことや精神障害のある方のこと、ひきこもり状態の家族がいる家庭のことでした。津波で問題が発生したわけではなく、その前から要支援の人々だったけれど、津波で社会基盤が崩れ、生活も崩れてしまっているのです。避難所に行くことは、やはりむずかしいことでした。阪神淡路大震災の経験から、少しずつ福祉避難所の取り組みはありましたが、それでも家を離れなくてはならず、皆さん大変な状況でした。

 今朝はウクライナの小児病院の赤ちゃんたち、つまり治療を受けるために入院している子どもたちのニュースをTVで報道していました。ウクライナでポーランドをはじめとした隣国に避難し、避難所にたどり着いた人々の映像を見て、ウクライナの障害のある人々、家から出ることができない人々はどうしているのでしょう。想像するだけで心がつぶれる思いになります。どうか一日もはやく終結することを願います。

 インドネシアで空港に向かう時、焼けくずれた高速の料金所やデパート、戦車、銃を持つ兵隊さんたちを見ました。陸前高田ではものすごい瓦礫の山と、自衛隊の給水所で水を待つ子どもたち、高速道路を隊列で走る自衛隊の車を見ました。そんな中、ジャカルタから到着して空港で食べたコンビニおにぎりがおいしくて感動、陸前高田への高速道路のトイレの便座が暖かかったので感動、でした。私の経験はちっぽけなものです。

 「海の向こうで戦争が始まる」ではないですが、少し遠い日本ですが、現地の皆さんのことは少し想像力を働かせるだけで、どんなに大変なことになっているかわかります。本当に一日もはやく戦争が終わることを願います。