恩師-恩人の死

 先週の土曜日の夜半に恩師ともいえる人が亡くなりました。学生時代の恩師ではないのですが、でも、学生時代からのお付き合いなので、恩師と言ってもいいのかもしれないです。大学に入り、障害のある人の運動に参加したことが今の仕事まで続いてきています。福井のド田舎から出てきた本当に何にも知らない田舎娘でしたが、活動の仲間に入り公私ともに関係し、いろんなことを教わりました。餃子の作り方から、人の活動への誘い方までです。(なんだかすごい表現ですね)

 私は小児てんかんの子どもを持つ親の会と日本てんかん協会でながらく活動をしていました。仕事にもなっていました。親の会自体が、若い親御さんで構成されていて、てんかんのことを学ぶ学習会とともにボランティア学習講座も開催していました。大学の同級生に連れられて第1回目のボランティア学習講座に参加して、そのまま目くるめく学生運動のような障害者運動の世界に入り込みました。その方のお宅に事務局があったため、大学にはあまりいかずに居候のようにお宅に存在していました。新しいプログラムを次々と展開し、そこに参加するのは本当に楽しいことでした。約45年前のことです。早稲田すぱいくはその流れで作られています。

 当時、親の会の資金がなくておこなったバザーでは、地域一帯にビラを配り、案内掲載を新聞のお知らせ欄に依頼し、いろんなところから寄せられるご寄付の品物を集めに歩きました。量が多ければリヤカーで集めに行きました。彼女は自転車に乗れないので、リヤカー組でした。リヤカーで集めた荷物を、別に借りていた集荷場にいれ、値段付けをする。お父さんたちが車でもあつめてくださり、お母さんたちが値段付けをする。バザー当日は模擬店も行う、といった昔盛んにあちらこちらで行われていた形態ですが、最盛期には古いアパート一つが埋まるくらいまで荷物を集め、少し小さいですが保育園を全室使うくらいの規模でした。このバザーは延々と続けられました。多くのメンバーがこのバザーで鍛えられ、淘汰されました。

 彼女は息子さんが生後4か月でウエスト症候群を発症し、知的障害を持つことになったのですが、重い知的障害のある子の親として、家計を支え(正規の公務員)、家事もほとんどこなす主婦として、八面六臂のスーパーウーマンでした。できないことは自転車に乗ることと、人前で話すのが苦手、くらいかなぁ。お家のことは、本当に全部担っていたようです。

 死因は心不全、家で突然倒れたそうです。救急車がきたときは、すでに手遅れだったとの事。病気知らずの方でしたから、ご本人が一番おどろいておられるのではないでしょうか。約1週間前に数年ぶりに会っていた私は、知らせのあった翌日、警察で会うまでは信じられませんでした。絶対長生きするって言ってたのに、そんな突然、行っちゃうなんて!です。社会福祉士会司法福祉委員会の活動や早稲田すぱいくの活動、何があっても事業が継続できるよう(BCP)に準備しないといけないと最後の教えでしょうか。でも、いてほしかった、もっと相談したかった。

 本当に一人で、いろんなことをこなしていた方です。この45年のことが走馬灯のように思い出されます。ご家族は大変お辛いと思います。ご冥福をお祈りいたします。(小林)