昔話法廷

 NHKは時々、びっくりするような番組を作っています。あるときネットで知って、ついつい全部見てしまったのが「昔話法廷」という、小学校4年生から高校生までを対象とした番組です。多くの日本人が知っている昔話を法廷で裁くというものです。昔話を題材に、裁判員裁判になっています。検事と弁護人がいて、被告人がいて、証人がいます。物語(一つの事件)を、いろんな角度から見ていきます。

 例えば、お菓子の家のヘンゼルとグレーテル。ヘンゼルとグレーテルは貧しい木こりの子どもですが、食べ物がなくなったということで、継母にいわれた父親によって森の奥にすてられます。(児童虐待ですね)ふたりは森の奥のお菓子の家にたどり着き、その家の魔女につかまり、食べられそうになったところを、機転を利かせて魔女をやっつけて、ついでにお宝を持って家に帰ります。継母は亡くなっており、父親と楽しく暮らしました。というお話です。

 「昔話法廷」では、ヘンゼルとグレーテルが魔女を殺してお宝を奪ったことが、単なる窃盗か、強盗殺人かで争われています。窃盗は間違いないようです。魔女殺しが、じつは森で迷った二人を保護した魔女の財産を狙った「強盗殺人」(刑法第240条)とみるか、魔女のヘンゼルを食べる計画に対する「正当防衛」とみるかです。

 証人は、ヘンゼルが帰り道のしるしに落としていったパンくずを食べてしまった鳥です。被告人質問にヘンゼルとグレーテルもたちます。判決はなく、皆さんならどう考えますか?と終ります。(繰り返しますが、児童虐待の問題はとりあえず扱っていません。)

 放送は下のURLでホームページから再生できます。お話と争点は次の通りです。「三匹のこぶた」(正当防衛)、「カチカチ山」(執行猶予)、「白雪姫」(全面否定)、「アリとキリギリス」(保護責任者遺棄致死罪)、「舌切りすずめ」(殺人未遂)、「浦島太郎」(執行猶予)、「ヘンゼルとグレーテル」(強盗殺人)、「さるかに合戦」(死刑)、「ブレーメンの音楽隊」(強盗致傷と執行猶予)「赤ずきん」(心神喪失)、「桃太郎」(強盗殺人)の計11話です。おぉ~この話をこの視点でみるか、と感心します。

 再生は15分ほどですが、「さるかに合戦」は解説付きがあり、NHKの解説委員がアナウンサーをあいてに争点や量刑について解説しており、死刑と無期懲役、処罰感情、猿の生い立ちと事件の動機、などが話され少し長いです。いずれも第一線の俳優さんで演じられています。「桃太郎」は圧巻です。法廷問題ではなく、SNSでの中傷や外国人排斥のような現代の社会問題を取り上げています。ぜひ一度ご覧あれ、です。(小林)

昔話法廷 | NHK for School

高齢者の運転

 2019年に池袋で起きた、旧通産省工業技術院元院長であった高齢者による自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の東京地裁での裁判が終わりました。禁固5年の実刑判決でした。事故発生直後より、たいへんマスコミを騒がせた事件でした。これからまた控訴するかどうかでマスコミの話題になるかと思います。

 マスコミかネットかはよくわかりませんが、この高齢者が勾留されなかったことで「上級国民だから逮捕されない」とまことしやかに流されていました。大学のゲスト講師で司法福祉についてお話をしたときも、学生からなぜ逮捕されないのかと質問がありました。「この人は高齢で逃亡、罪証の隠滅の恐れがないので勾留されないのです、こういう場合を在宅事件といいます」とお話をしました。

 この事件に前後して高齢者の運転免許についての電話相談をたくさん受けました。運転をされるこうれいしゃのおられるご家族からです。だいたい娘さんかお嫁さんからでした。運転の問題は大変難しく、車はとっても便利なものですし、運転が出来ていたことができなくなることは大変つらい事です。それも、実際は出来るのに、意思でしないのですから、自分を律する必要があります。都市でしたら交通網が発展していますし、駐車場代も高いので手放すことを考えることができるかもしれないですが、地方に行くと難しいことだと思います。ご相談をよせる皆さんは、本当にひやひやして、どうしようかと悩んでおられました。

 相談を受けるために警視庁に尋ねたところ、以下のお答えをいただきました。(8項目あり少し長いです。)   ①運転免許は高齢者であっても、本人の権利なので、返納はあくまでも本人の意思によるもの、②周囲の人々から、警察や更新センターに、こっそりと更新できないように相談することは出来ない、➂70歳以上の方は、更新する場合は、必ず「高齢者講習」等を受けないと更新できない、④75歳からは、さらに講習を受けるための予備検査(認知機能検査)等を受ける必要がある、⑤高齢者講習には適正診断、夜間視力、胴体視力検査等と実車運転がある、⑥75歳以上は年々ハードルを幾重にもして厳しくしている、⑦講習は更新を妨げるものではないが、検査と講習で引っかかると、つまり認知症と判断されると免許取り消し又は免許停止となる、⑧各警察署の交通課に相談窓口があり、ご家族と一緒に相談に来てください。

 返事を聞き、まず、「権利かぁ」と思いました。何事も線引きはできないです。高齢だからできなくする、権利を取り上げるというのは、成年後見制度ではないですが、大変難しい問題だと改めて気づきました。

 ちょくちょく出てくる私の両親の話です。実家は商売をしていましたので、両親ともに運転をしていました。しかし、父親は70代後半で大きな交通事故を起こし、ケガは後遺症もなく退院をしましたが、それ以降、亡くなるまで10年近く運転をしませんでした。この事故で、仕事を辞めましたが、普段にも運転をしなかったです。それまではほぼ毎日仕事で車を使っていましたので、父親を乗せると、道が違うとかあっちに行けとか、大変うるさい指示が後部座席から飛んできていました。

 母親も毎日のように運転をしていましたが、こちらも、膝の手術をしてから運転をしなくなりました。70代後半でした。母親が手術をするときに、私は障害者手帳の事や、手帳があると車に関しても特典があるようなことを話した覚えがあります。しかし、母親は運転を辞めました。娘の福祉の知識の振りかざしを聞き流してくれました。今から思えば、二人とも運転に固執すること無く辞めてくれてほんとうによかったと思っています。(小林)

 

巨星墜つー田島良昭氏への追悼

ハンマー:02(2021.08.08)

 8月2日、社会福祉法人南高愛隣会の創設者である田島良昭氏の訃報を、この法人で働く次男の電話で知る。ちょうど2か月前の6月3日、氏より八王子市の施設への支援要請の電話があり、大腸がんで入退院を繰り返ししているとのことで、口調に元気が無いことが気になっていたが、まさかこんなに早い別れになるとは思いもしなかった。衝撃を受け、文字通り通り絶句した。翌朝に葬儀が行われ、午後に医療機関に献体されるとのことであった。

 氏の障害者支援活動の功績は、筆舌に尽くし難い。基本理念に障害者の人権を高く掲げ、障害者が地域で暮らす意味を提起し、自ら設立した入所施設を解体し、地域での支援体制を築き上げた。上から目線で障害者に同情を寄せる人や、観念的に人権を論じる人はあまたいるが、自らのそれまでの権威的な実践を否定し、血を流す程の苦難の道へハンドルを切った人はほとんどいない。まさに、思想と行動が一体になり、ぶれることなく貫いた人と言える。

 彼との出会いは、一幅のドラマであった。知的障害の問題に関わり始めた時、当時の全日本育成会の仲野好雄理事長から、「雲仙コロニーを見学するべき」と勧められた。高齢な氏の勧めである。当然、田島氏も高齢と勝手に判断し、丁寧に聞き流していた。ところが、当時の障害福祉課長の浅野史郎氏が、「障害者人権懇談会(人権懇)」を立ち上げ、一癖のある活動家を呼び集め私も声を掛けられたが、そこで初めて田島氏と顔を合わせることになる。 

 氏は長崎県(島原市)、私は佐賀県(唐津市)という、同じ九州の生まれである。人権懇では、率直に熱っぽく語り合った。そして、氏の実践に障害のある長男を利用者として、次男を職員として託したのである。まさに、我が家は氏が作り上げた土台の上に成り立っている。私が長男の現実に何ら悩むことなく、将来に何ら不安をもつことなく、呑気にエラソーに喋りまくることができるのも、氏の有形・無形の支援によるものである。

 その後も、氏からは様々な助言や人や機関の紹介を頂いた。しかし、一度として恩着せがましい言動や、高い地平からの視線はない。それどころか、事実以上の高い評価をいただき、種々の好機の場を与えられた。今になっては遅くなったが、心から感謝の念を申し上げたい。

これまで私は、多くの人のご支援を得て何とか今日までやってこられたが、田島良昭氏のご指導とご支援は別格である。両手を挙げ、地に伏して、衷心から御礼を申し上げたい。(松友)

全員悪人

 私事ですが、86歳になる母親はグループホームに今年からはいっています。4年前に父親が亡くなりました。父親は小さな脳梗塞がたびたびおきたようで、だんだん弱っていきました。父親が弱り始めて、母親とごちゃごちゃするようになり、地域包括支援センター、ケアマネージャー、ヘルパーさんや訪問看護、デイサービスや配食サービス。昨日までできていたことができなくなることの、高齢者問題に当事者として(対応のメインは近くに住んでいる弟ですが)対応することになりました。

 すでにいろいろなところで取り上げられていますが、CCCメディアハウスから出版された、村井理子著「全員悪人」を読み、とても身につまされました。認知症の高齢女性の一人称語りの物語です。自信をもって生きてきただろう女性が認知症の発症と共にいろいろと混乱していき、出来ていたことができなくなり、それどころかいろいろとやらかしてしまいます。それによって家族が混乱し、その女性は憤りを持ちながら、あふれた自信から底知れない不安へ進んでいきます。ただ、この物語には力強い、悲観的でないお嫁さんがコーディネーター的に存在し、その言動に救われます。

 私事に戻ります。自分が親元から独立し子育てが終わり、次は親の老後対応で、その次は自分の老後です。父親が亡くなる数年前より、いろいろと心の拠り所になっていた親が頼りないというより、拠り所でなくなってきたことに気付いて、少し寂しくなりました。今は娘のよりどころ(?)と思いますが、今に自分も親のように弱っていくのだろうと想像しています。「全員悪人」を、ほんとうに自分事として読みました。

 犯罪の問題にかかわる仕事をしていますと、ご相談の方とご家族の人生にかかわることになります。高齢の万引きの方のご家族のご相談では、徘徊先で事件を起こされ、今後についての話で「24時間私が看ます」という奥さんがおられました。迫ってないけど迫られた感があったのでしょう。それは無理なので、皆で対応を考えました。情報提供と踏ん切りをつけるための背中押しを誰かがしなくてはならないです(踏み出すのはご自身ですが)。ご家族は混乱と憤りと不安でいっぱいでしょうが、ご相談の当事者さんも同じ状態です。支援者としてのかかわり方を確認する1冊でした。(小林)

ゲスト講師の授業

 数年前より、福祉系大学の外部講師を依頼されることがあります。司法福祉について、専門の授業ではなくお話しします。自分の年齢はあまり意識することがないというか、あえて意識しないようにしているところがあります。しかし、ここ数年で、学生さんに伝わる話が少なくなってきて、意識せざる負えなくなっています。

 平成15年に山本譲司さんの「獄窓記」が出され、刑務所の中に知的障害のある人たちが存在することが明らかになって以降、罪を犯した障害者支援は進んできています。加えて高齢者の犯罪とされる問題もいっしょに進んでいます。長崎の社会福祉法人南高愛隣会が次々と研究事業をおこない、平成21年には地域生活定着支援センターが制度化され、刑務所や更生保護施設に福祉専門職が配置されていきました。平成28年には再犯防止推進法ができ、本年、令和3年度には厚生労働省において入口支援(被疑者等支援業務)が始まっています。

 このような流れや刑事司法のいろいろ、高齢者や障害のある人の犯罪の事例などを、ゲスト講師として学生さんにお話をします。平成15年からの歴史(?)の話や制度の変遷についてはやはり眠たかろうと、つかみをいくつか用意しています。テレビや映画の話が多いです。2時間ドラマからもってくることが多いのですが、検事は現場で捜査をしないとか、弁護士さんの様子とかです。一時はHeroや京都地検の女でしたが、若い人はテレビを見ることが少なくなっているそうで、番組の説明からしなくてはならなかったり、それよりも今年はHeroのキムタク=木村拓哉さんを知らない学生さんがいて、木村さんの娘さんの名前を言おうとして名前が出てこなかったり、つかみが全くつかめていない状態です。

 また、昨年からはオンライン授業で、学生さんは顔出しをしないことが多く、まぁ、あじけないこと。教室で反応を見ながら話しのふくらましもできません。その場での質問もなく「暖簾にうでおし、糠に釘」。ところがリアクションペーパーを後日いただくとたくさん書いてくださる。常日頃の大学の先生のご努力に頭が下がる思いです。「ご苦労様です」

 来年のゲスト授業、つかみのためのネタを仕入れなくてはとおもいます。コロナ禍もおさまり対面になれば、また学生さんの反応も見える、けど、若者との年齢差はまた1年くわわるので、ネタ~、と焦る今日この頃です。

(小林)

ハンマー

何に、どう打ち込むか(01(2021.05.08)

 この「早稲田すぱいく」で、コラムを載せることになった。「スパイク」とは本来の意味では「先の尖った釘」のことであり、ここでは鋭い問題提起のことを指している。そのため、このコラムは、そのタイトルを「ハンマー」とした。お分かりであろうが、釘を強烈に打ち込みたいと考えているのである。優しい評論と文章は、読む者に心地良さを感じさせるが、論点が誤解されることもある。この間の世の議論でしばしばみられる混乱である。

 もっとも、この性格の小生が書く文章である。表現も内容も優しくなるはずがない。そのため、これまでも至る所でさまざまな反発や混乱を引き起こした。しかし、表面だった反論はあまり目にしない。再批判を怖れるあまりであろうか、反論に値しないと判断されたのだろうか。どちらにしろ、手ごたえがないのは寂しい限りである。ぜひ、厳しいご意見やご批判を心から願うものである。批判を受けての議論が、真の友情を育てると小生は確信する。 

 問題は、何事に対して、どのように釘を打ち込むかであろう。もちろん個人的な問題は論外としても、多様性に関わる問題には慎重さが必要と自覚する。それは、小生の視点・論点の問題でなく(勿論、それは大きいけれど)、加齢に伴う認識の劣化が否定できないからである。特に、記憶力の低下は驚くものがある。その結果、「記憶にありません」が、決して政治家の得意技ではなくなるのである。確かに、自分には都合の良いこともあるが。

 この間の関心は、「弱い人の悩み」であり、言い換えると「支援を必要とする人の課題」である。「弱い」とは、心身のみでなく社会的立場・事情からくる状態である。別の表現をすれば、「差別」の問題である。事件や事象も、この視点から読み取ると、異なった色彩を帯びてくる。それは、この間、話題に上がったジェンダーに関わる問題だけではない。かつては考えもしなかったようなことに、この視点が求められるのである。

 しかし、「弱さ」と「強さ」を共有する人の自己弁護には、何とも言えない違和感がある。社会的地位の高い高齢者が起こす事件・事故の弁明には、理解を超えるものがある。それゆえ、簡単に「差別」と切り捨てることはできない。これも、「多様性」の事例と言えるのだろうか。現代はしばしば「複雑な時代」と呼ばれるが、このように価値観のみでなく事実も、かつては考えられなかったことが存在するようになった。(松友 了)